相手の気待ちを考える

 

ふと思ったんだけど「相手の気持ちになって考えて」と言われた時、必要になるのは感情的に考える力なのか、論理的に考える力なのか。

 

 

このセリフは僕の記憶の中だと小学校の時によく聞いた気がする。一見あらゆるトラブルが解決できそうな魔法の言葉だが、小学生レベルだとまだ難しい。例えば給食の時に、A君がBちゃんに「やーいブタが飯食ってるぞー」と言ってBちゃんが泣いてしまったとする。

 

先生「Bちゃんの気持ちになって考えたらそんなこと言っちゃダメでしょ」

A君「俺太ってねえから言われても平気だしっ」

Bちゃん「うえーーん」

 

先生が言いたいのは「自分が言われて嫌な気持ちになることを相手に言ってはいけない」ということだが、嫌かどうかを判断する基準がA君の中だけにあるうちは解決しない。

 

先生「A君だって『このクソチビ〜まだ母ちゃんのおっぱい吸ってんじゃねえのか?』って言われたら嫌でしょ?」

A君「確かに…」

 

先生の例示が独特なのはさておき、A君は二つの感情の関連性を理解する。

・ぽっちゃり体型にコンプレックスのあるBちゃんが「豚」だと言われるときの気持ち

・身長を気にしている自分(A君)が「チビ」だと言われる時の気持ち(ついでに未熟さについてもからかわれている)

 

A君は「人のコンプレックスをむやみ突っつくと嫌な気持ちにさせちゃうからやってはいけない」ということを学ぶ。この学びは自分が「チビ」だと言われた時の嫌な気持ち、という感情体験支えられている。A君は自分の感情体験を抽象化し、他人の感情体験との関連性を理解する。この抽象化された感情体験はA君の人生の感情辞書の中に新しい単語として加わるのだろう。今後A君は自分が何か行動する際に、他人を観察し、他人の感情を想像し、自分の感情体験をベースに関連するものを感情辞書の中から見つけ出した上で適切な行動ができるようになる。

 

小学生の頃苦労したチビデブレベルの話は、大人になってくると大体対応できるようになる。みんなが何年か人生を生きて、感情体験を積み上げ、おおよその人の感情辞書に共通の単語が含まれるようになる。それが「常識」で済ますことができるやつだ。

 

ただ実際には大人になってなお、喧嘩あり、いじめあり、破局あり、戦争ありなのだ。まあ少し大げさだが要は「感情辞書にのっている単語の説明が異なる」あるいは「片側の人にしか記録されていない(もう一人はまだ発見していない)」場合の時に齟齬が生じる。

 

自分の辞書に載っている単語とその説明は、自分のあらゆる感情バックグラウンドが論理のベースとして記録されている。そのうちの多くが「常識」と呼ばれる共通項なので普段生活していて大体は自分のロジックが正しいと思える。しかし何か齟齬があった時には、相手の論理ベースを元に仮想空間みたいなものの中で相手の辞書を構築してあげて考える必要がある。

 

上手な人は自分の感情辞書を参照するだけではなく、相手の人生背景、性格、状況、タイミングもろもろを観察考察し、その場で自分が経験していない抽象感情を自分の辞書に仮入れできる。もしくは同じ単語だけど説明の仕方が異なることがあることを理解している。この人たちは論理的思考に長けていると僕は考える。

 

ただし、これはベースとなっている環境背景事実状況を入れ替えているだけなので、こうして構築した相手辞書は結局「自分の感情」という論理でできたものなのだ。つまりファクトの組み合わせを変えた上で論理をのせることで自分の辞書に載っていない単語を生成できるものの、どう論理をあてはめても作ることができない単語が存在する可能性もある。

 

僕はこのどうしても作れない単語の生成は「根っこの感情」が関わっていると考えている。つまり論理的に帰結しうる感情を超えた「根っこの深淵にある感情」があるんじゃないかなと。これについてはよく説明できないし、そもそも説明する必要があるものじゃないと思う。論理で説明できない感情があると信じたい。

 

最初の質問に戻ると、「相手の気持ちになって考えて」は基本的に相手の環境背景事実状況から相手の辞書の単語を生成する論理的思考が求められている。そして上手い人は大体対応できる。だけどこの問いには論理では帰結し得ない「深淵」がたしかにある。だからこそ人間って面白いんだろうな、とありきたりなことを言ってみるのです。